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大坂城と豊臣家の悲しい歴史
大阪城は
通称「太閤さんのお城」とも呼ばれ、豊臣秀吉が築城したものだと思われている。
いや、最初に建てたのは間違いなく秀吉であるが、、、



●豊臣大坂城

城の北、東、西には川が天然の堀となり、鉄壁の守り、難攻不落の巨城といわれた。
唯一陸続きとなる南側には二の丸の堀、三の丸の堀をつくり
三の丸の外堀はいわゆる水のない空堀とし、そこに惣構(そうがまえ)を建設した。


【大坂冬の陣】
秀吉の死からわずか2年後、
きっかけを虎視眈々と狙っていた徳川家康が
豊臣秀頼のささいな行動にいいがかりをつけ開戦。
豊臣方は篭城戦をいどみ、その激戦の音は京の街まで響いたといわれる。
徳川方は川をせきとめようとしたが、うまくいかず
三の丸の空堀を攻める戦法に出たが、攻めきれず撤退。
その後の講和による終戦の結果、大坂城は講和条件として惣構(そうがまえ)の撤去と
三の丸、二の丸の堀を埋め立てを要求され、裸城にされてしまった。

【大坂夏の陣】
徳川家康は再戦の準備を着々と進めていた。
わずか4ヶ月後のこと、
豊臣秀頼が家康の動きに危機感を抱き、堀の再建を試みたために
家康に講和条件破棄とみなされ、再び開戦。
裸城であった大坂城はいとも簡単に落城。
漆黒の豊臣大坂城天守閣は大火の元に崩れ去った。
その真っ赤に燃え上がる炎は大坂の夜空を照らし、
その様は京の街からも見えたと伝えられている。
そして逃げていた豊臣秀頼、淀殿(茶々)らも翌日発見されて自殺に追い込まれた。


現在、大阪城天守閣で所蔵されている、自らも大坂夏の陣に参戦した黒田長政が
絵師を集めて描かせたとされる屏風絵「大坂夏の陣図屏風」の左半分には、
徳川方の雑兵達が大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き
身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、
そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。
また、記録によれば、一万数千の首の内、偽首を取られるなど殺害された民衆が
数多くおり、生き残ったものの奴隷狩りに遭った者の数は
大人から年端の行かぬ子供まで数千人に達したとされる。

ある町人が残した記録「見しかよの物かたり」には

  男、女のへだてなく
  老ひたるも、みどりごも
  目の当たりにて刺し殺し
  あるいは親を失ひ子を捕られ
  夫婦の中も離ればなれに
  なりゆくことの哀れさ
  その数を知らず

と、その悲惨さが語られている。


そして徳川家は、市井に逃れた豊臣家の嫡子までも探し出して殺した上に
秀吉の墓までも暴いて破壊した。。。


ここで豊臣家が滅亡するに至った。




●徳川大坂城

2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が行われた。

徳川氏の大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、
全体に高さ約1メートルから10メートルのの盛り土をした上に
より高く石垣を積んだので、豊臣大坂城の遺構は地中に埋もれた。
また、天守など建物も構造を踏襲せずに造り変えられた。

天守は豊臣氏のものとは位置も変え、総床面積から高さまで
豊臣氏の天守を越えるものが上げられた。
大坂城をより豪壮な城郭として全く新しく築くことで、豊臣氏の記憶を封じ込め、
かつての豊臣氏の勢威を凌駕する徳川氏の威信を日本全国に示そうとしたものと
いわれている。

つまり、現存する櫓や石垣などはすべて徳川幕府により建設されたものである。

徳川天守閣は江戸時代末期に落雷により焼失した。




●復興天守閣

昭和3年に大阪市により鉄筋コンクリート造りで再建し、
平成の大改修を経て現在に至る。
復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、
5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴の絵を描いている。




つまり、豊臣秀吉の面影は天守閣の5層目にしか残っていないのである。

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